『質問』 田中未知さんより
それは『過去の自分』です。
『あの頃の私』が頑張ってくれたから、今の私があるわけで、過去の私には感謝してもしきれないくらいです。
思えば、どんな危機に陥っても、不思議と「絶望しきる」という事はありませんでした。
目の前真っ暗に感じても、いつでも、その先に希望の光を感じ取ってきたし、どんなに辛く、果てしなく感じても、心の底では、自分が至るべき所に至ることを識っていたような気もします。
もしかしたら、未来の私――すなわち現在の私が、過去の私に必死に囁きかけていたのかもしれません。「絶対に諦めるな」と。
そういう意味では、私もシルスマリアの先端まで行ったような気がします。
何度、あの断崖に登っても、きっと同じことを言うでしょうよ。
`War _Das_ - das Leben?` will ich zum Tode sprechen.
これが――生だったのか わたしは死に向かって言おう。`Wohlan! Noch Ein Mal!`
「よし! それならもう一度」と!
ちなみに、本人の生き様と作品は無関係ですよね。
晩年、ニーチェが発狂したからといって、作品そのものまで発狂しているわけではないし、少なくとも、その瞬間にはそれが真理と感じ、現代まで愛されているのですから、本人が不幸な亡くなり方をしたからといって、作品の価値まで損なわれるわけではないです。というより、それを書いていた最中には、本人は相当に幸せで、ある種のエクスタシーを感じていたことでしょうから(ほとんど別人28号)、書き終わった後、病気になろうが、破産しようが、作品とは何の関係もないのです。
魂のカモメも、永劫回帰のように、時空を飛び回っていることでしょう。
その声の聞こえる人だけが、絶望も知らず、飽くことも知らず、人生を味わい尽くせるのかもしれませんね。
「あたしは階段を半分降りたところが好きだよ。ここが『あたしの場所』だよ。てっぺんでもなくって、一ばん下でもない」
勿論、誰も聞いてやしなかった。アパートでムギの話し相手になることは、他の居住人から物笑いになることを意味していたのだ。
「この階段を半分降りたところからは、上へものぼれるし、下へも降りていける。どっちへ行っても、何だかいいことがあるような気がするね」
寺山修司『あゝ荒野』
カモメは海の哲学者。何を考えているのやら。
カモメは海に向かって、決して絶望などしないのです。
いつでも自分の力で、自分の好きな所へ、飛んで行けるからね。