『質問』 田中未知さんより
人は、自分の経験したことや知っていること以上のものを体感することはできないと思っています。
どれほど心が優しくても、戦争で住まいも家族も自身の五体さえも奪われた人の痛みを我が物のように感じるのは難しいし、どんなに秀でた人でも、食うや食わずやで生きている人間の苦しみなど分からないと思うからです。
私たちにできるのは、限りなく対象に近付き、「こうかな」と想像することぐらい。
その想像も、結局は自分の知識や経験を通した中でしか推し量れないから、その推量は、どこまでいっても主観であり、妄想であり、自身の願望や追体験でしかありません。
だからといって、対象に近付き、想像することを止めてしまえば、私たちは自分以外のものを知り得ぬ怪物になってしまうし、時には自分以外の何ものかについて推し量ることが、知識や感性の幅を押し広げてくれることもあります。
そういう意味では、「正しく読み取ること」より、「読み取ろうと努力すること」に、真の優しさがあるのかもしれませんね。
こういうベンチに座っている人を見ると、いつも思うの。
何を考えてるのかな、って
この締切堤防に訪れる人だけでも、何千、何万といて、人ひとりの存在なんて、砂粒の重さもないでしょう。
でも、老若男女を問わず、一人一人の中には計り知れない心の宇宙があって、誰もが必死に生きてる。今日よりは明日、明日よりは明後日、よくなることを願いながら。
Zeelandのあの海は、そんな人の想いを、もう何百年も何千年も見詰め続け、その中には洪水で家を押し流され、死を考えた人もあるでしょう。
にもかかわらず、ずっと変わらずそこに在り、この地域の人々と生を共にしている点が素晴らしいと思うのですよ。
そして、この地に生きる人も、海を憎んだりせず、また生きることを諦めず、水の流れを変え、川をせき止め、共存の道を歩んでいる。
創造というなら、Luctor et Emergo(私は闘い、水の中から姿を現す)、この地の堤防そのものだと。
そんな堤防の天端で、今日も誰かがベンチに腰掛け、海を見詰めている。
悲しいのか、淋しいのか、泣いているのか、疲れているのか、傍目には分かりません。
だけども、ベンチに腰掛けた一人一人の横顔を見ていると、わけもなく尊い。
そして、この海は、そんな何千、何万の想いを見詰めながら、一人一人の疲れや淋しさを、遠く海の彼方まで運び去ってくれるのではないでしょうか。