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干拓型海洋都市『リング』鋼製ケーソンで海底面に都市空間を創出する

海と恋の物語
アイデアの是非が問われる中、干拓型の海洋都市『リング』のプレゼンテーションに立った彼は「ボルトを締める人の手にも意思がある」と社会の基盤となる庶民の誇りや意欲の重要性とについて説き、「信用こそ資本」と建設費に勝る価値を創出することを宣言する。
目次

【コラム】 Luctor et Emergo(私は闘い、水の中から姿を現す)

本作の標語でもある『Luctor et Emergo(私は闘い、水の中から姿を現す)』はオランダ・ゼーラント州のモットー(ラテン語)です。

英訳すれば、 I struggle and emerge

struggle の意味は、

もがく,あがく;戦う,組討ちする,格闘する
苦闘してやり遂げる[処理する];〈道を〉苦労して進む.
[リーダーズ英和辞典第3版]

emerge の意味は、

a 《水中・暗闇などから》出てくる,現われる (opp. submerge);〈…の中へ〉出ていく〈into〉.

b 〈不景気・貧困・低い身分などから〉抜け出る,脱出する〈from〉;(…として)頭角を現わす,台頭する〈as〉;生 ((創発的)進化によって)出現[発生]する.

2 〈新事実などが〉わかってくる,現われる,明らかになる;〈問題・困難などが〉持ち上がる. L (MERGE)
[リーダーズ英和辞典第3版]

幾度となく大水害に見舞われ、その度に、知識と技術を駆使して立ちあがってきたオランダ人の気骨が見事に凝縮されたモットーです。

Coat of arms of Zeeland
By User:Rode raaf - Hoge Raad van Adel SVG is Own work, Public Domain, Link

主人公のヴァルターも、プレゼンテーションの前、必ずこのモットーから始めます。

水の中から立ち上がりたいのは自分自身。

そして、ついに運命のプレゼンテーションで本領を発揮します。

この日の為に全てがあったと納得できる瞬間です。

【小説】 干拓型海洋都市のアイデア

壮麗な海上都市『パラディオン』の建設計画が推し進められる中、ヴァルターは干拓型の海洋都市『リング』を対案として提示して、世界的な建築家フランシス・メイヤーに真っ向から挑む。影ながら彼を応援するリズは、有名な土木・建築の専門誌に特集記事を組んでもらい、アイデアをアピールするが、メイヤー達の恨みを買い、絶体絶命の危機に陥る。世間が騒然とする中、ヴァルターは一般大衆の理解を得る為にプレゼンテーションに挑み、アイデアの是非を問うため、中央政界の本会議で質疑に応じる(引用はここまでです)。

このパートは『第六章・断崖』の抜粋です。作品詳細はこちら

彼は演台に立つと、ホールを見回した。

ここは公聴会と同じ場所。あの日も軽い胸の痛みと共に演台に立ったのを思い出す。

あの時、彼女とその父親は二階傍聴席の右手の端に座っていた。今も瞼にはっきり浮かべることができる。ここまで来たのも、ここに居るのも、突き詰めれば、それが理由だ。自分で認めようとしなかっただけで、いつも心に棲んでいた。だが、今ならはっきり言える。自分がどんなに彼らを大事に思っていたかを。

彼は深呼吸すると、プロジェクタ・スクリーンにリングの鳥瞰図を写し出した。

オーシャン・ポータルに掲載している画像より、いっそう緻密で美しい三次元CGに満場から溜め息がもれる。

スタジオ・ユノが一から描き直した鳥瞰図は、昼のバージョン、夜のバージョンの二種類だ。昼のバージョンは、青い海原に二重の円環ダムが伸びやかに描かれ、内部には水と緑の美しい町並みが開けている。夜のバージョンは、宇宙の深淵に永遠の環を描くが如く、ライトアップされたダムと水路が光の輪のように夜の海を彩る。

天上からも見えるだろうか。いつも親身に見守ってくれた父の眼に。

進行役が合図すると、彼はいつもの口上から始めた。

「Luctor et Emergo――わたしは闘い、水の底から姿を現す。これが俺の一番好きな言葉です。

アステリアもまた水に沈んだ世界です。惑星表面積の九十七パーセントは海洋に覆われ、居住に適した土地は僅かしかありません。いずれ社会の成長も頭打ちになり、庶民は深刻な住宅問題や用地不足に直面するでしょう。住まいのみならず、製造、物流、貯蔵、研究、あらゆる分野で競合し、海洋社会のポテンシャルも潰えるかもしれません。

しかし、ここに一つの可能性があります。

『リング(The Ring)』。

鳥瞰図が示すように、浅海の海底地盤の強固な場所に、鋼製ケーソンの外周ダムと重力式コンクリートダムの内周ダムを築き、内部の海水をドライアップして、海底面を現出するアイデアです。

直径十五キロ、創出される都市部の面積は約一六五平方キロメートル、人口数十万人が暮らすに十分な広さを誇り、用途に限りはありません。住居、工場、農地、競技場、エネルギー施設など、標準的なインフラを備えた近代的な都市を構築することが可能です。

鋼製ケーソンの一単位は幅一〇〇メートル、高さ五〇メートル。これを約四七〇個連結し、円環の外周ダムを構築します。

鋼製ケーソンの外郭にはニムロイド合金を用い、徹底して耐久性を高めます。通常、ニムロイド合金を用いた補強や防腐処理は、その他の製品に比べて二倍から三倍のコストがかかりますが、アステリアはこれを自給することができます。周知の通り、ティターン海台やウェストフィリアで採掘される硫化ニムロディウムの精製は、ネンブロットで採取されるニムロイド鉱石より安価です。全長四十五キロメートルに及ぶ鋼製ケーソンの加工に用いても、トリヴィア市内で同じ距離のリニア線を建設するより四割安いとの試算です。

一方、重力式コンクリートの内周ダムは排水と共に建設を始め、内側の海底面の状態を見ながら都市計画を進めます。

最も重要な課題である水管理については、外周ダムと内周ダムの間に幅一〇〇メートルの運河を設け、水管理と水上運輸の両面で役立てます。それに併せて、都市部にも小運河と排水ポンプを設置し、浸水や増水の危機に備えます。

鋼製ケーソンの外周ダムは海水の流入を堰き止めるのが第一の目的ですが、水循環の効率を高め、干拓地の土壌改良を促す為に、鋼製ケーソンの下部から一定量の海水を取水し、逆浸透膜によって淡水化するアイデアを取り入れています。

一部の水上ハウスでも導入されている、『海水を真水に変える水道フィルター』とよく似た機能です。

逆浸透膜によって淡水化された水は、外周ダムと内周ダムの間の周回運河、および干拓地内を区画する運河を満たし、灌漑用水として活用されます。

干拓地内を循環する運河の水は、各所に設けられた調整池に集められ、排水ポンプで汲み上げられて、外周ダムの外に放出されます。円滑な水循環により、土壌の脱塩が促され、干拓地内の水質もクリアに保たれる仕組みです。

ポンプの動力源をはじめ、都市部に必要な電気は、鋼製ケーソンに組み込まれた波力発電装置、外周ダムの上部に建てられた風力発電装置、各所に設置した太陽光発電装置など、自然のエネルギーを最大限に活かす為、環境にもやさしく、経費の節約にもなります。

また鋼製ケーソンの内部空間は、物資の貯蔵や産業廃棄物処理に利用したり、緊急時の避難スペースとして確保することも可能です。技術が進めば、自動車道やライナーを敷設し、交通に利用することも出来るでしょう。

夜間にはダムの天端や運河の周辺をライトアップし、娯楽性を高めます。噴水ショー、ナイトクルーズ、ウォータースライダーなど楽しみは様々です。上空からはプラチナの指輪(リング)が輝いているように見えるでしょう。

外部との交通は主に船舶を利用します。外周ダムに大型タンカーや作業船が係留可能な浮体式構造物を連結し、物資は運河や跳ね橋を使って都市部に運び入れます。その他、都市部に垂直離着陸機の専用ポートを開設したり、海上空港を連結し、空路を確保することも可能です。

二重ダムに囲まれ、一見、閉塞したように見えますが、内周ダムの内側斜面には緑化を施し、芝生や菜園、遊歩道に活用するので、心理的な圧迫感は軽減されます。ちなみにこちらがネーデルラントの自然堤防と干拓地です」

彼はプロジェクタの画像を切り替え、かつてのフェールダムの風景を写し出した。

写真を提供してくれたのはデ・フルネのメンバーだ。

海面より低い農耕地。自然堤防のすぐ側に建ち並ぶ民家。町のあちこちに張り巡らされた小運河。風車を模した愛らしい排水設備。自動車と併走するモーターボート。
人々は家屋の屋根を足下に見ながら堤防の天端でサイクリングを楽しみ、屋根と同じ高さにある運河の土手には色とりどりの花が咲き乱れる。

そこに堤防に圧迫された様子はなく、水と共に生きる人々のユニークでのどかな暮らしがある。

次に提示するのは、リング・プロジェクトの里程標(マイルストーン)だ。

里程は「企画・調査」「設計と発注」「施工」「維持管理」の四段階に分かれる。

「企画・設計」では地盤調査や海洋観測、テスト構造物の設置を通して詳細なデータ取得と実証実験を行い、建設予定地や設計の条件を確定すると共に、事業費の概算と財務、工程の作成を推し進め、プロジェクトの全容を具体化する。

「設計」では、データを元に基本設計と詳細設計に並行して、工事費の概算を行い、発注の段取りを進める。 

「施工」では、工程およびコスト管理、工事監理。

「維持管理」では、構造物の検査や水管理などを行い、安全性の確立に努める。

里程に基づき、「外周ダムの構築」「内周ダムの建造」「排水と地盤改良」「都市部の建設」が順次行われ、概算では約二十年で都市に必要なインフラが完成する予定だ。

「二十年、あるいはそれ以上。途方もない年月に感じるかもしれません。今、よちよち歩きを始めた子供も大人になり、リングの完成を見届ける人もあれば、それが叶わぬ人もあるでしょう。だが、それが本当に価値あることなら、ほんの一時でも工事に携われたことに甲斐を見出せないでしょうか。

たとえば、アステリアの開発初期、まだ工業港もポートプレミエルも無かった頃、何千人もの労働者がこの地に移り住み、港を開き、道路を敷き、現在の町の基礎を築きました。その人たちは現在のローレンシア島の姿を知りませんし、裸島のようなローランド島に高級ホテルやレジャープールが作られるなど予想だにしなかったはずです。だからといって、それが無意味な労役などと、どうして言い切れるでしょう。当時の苦労は親から子、子からその子へと語り継がれ、それが心髄となっている人も多いはずです。

リング・プロジェクトは単なる働き口の提供ではありません。トップからチームの末端に到るまで、一人一人が自分の職務に誇りを持てるプロジェクトにするのが第一義です。必要な時だけ労働者を連れてきて、ぎりぎりの給料を支払い、上の都合よく指示を出すだけでは、数百年を耐え抜く構造物は作れません。自身でも誇りを持てぬ労働に、どうして未来の責任が持てるでしょうか。

ネーデルラントには数世紀にあたって国土を支える堤防や干拓地が至る所にあります。その多くは、重機もITも無い時代に基礎が作られました。一人一人の名前は残らずとも、随所に職人の知恵や気概を感じることができます。リング・プロジェクトが提供するのは、そうした生き甲斐であり、誇りであり、確固たる社会の礎です。お金では買えない、人間の精神の具現です」

次に紹介するのは都市設計のアイデアだ。

このパートは、再建コンペ仲間のイグナス・ファン・デル・ファールトが協力してくれた。イグナスも今では自治体の技術者と協力し、フェールダムの新興住宅地をはじめ、ゼーラント州の各地で都市開発に携わっている。

イグナスが提示したのは、運河で町を区画し、それぞれのエリアに機能を集中するアイデアだ。居住、公共、生産、娯楽、管理。半閉鎖空間を無駄なく活用する為、目的に添った施設をなるべく一カ所に集約し、移動やエネルギーの効率化を図る。

水路には装飾的な跳ね橋や風車を模した排水設備、小型ボートの係留できる浮き桟橋などを設け、見た目も楽しい町作りを目指すと共に、船上カフェ、噴水アート、水辺のライトアップなど娯楽の要素もふんだんに取り入れ、半閉鎖的な都市空間を華やかに彩る。

それはさながらフェールダムの未来形だ。干拓地で生まれ育ったからこそ、こうした発想が湧いてくる。

あの晩、洪水で流された町も、海を一廻りしてここに帰ってきた。

人は生きている限り、何度でも再建することができる。

水の底から立ち上がるように、何度も、何度も。 

「リングの最大の強みは、一度要領を得れば、二つ、三つと増設できる点です。もちろん時間とコストはかかりますが、それも技術の進歩と共に徐々に縮小され、将来的には多くの作業が自動化できるでしょう。アステリアに数千万人が暮らす一大自治領を築くことも不可能ではありません。そして、その頃には、アステリアの海も多くが解明され、科学と産業の両面から、他に類を見ない海洋社会に発展するはずです。

長年、アステリアは将来的に頭打ちになる属領と見なされてきましたが、リングに成功すれば、それも根本から変わります。それは決してトリヴィアに対する挑戦状ではなく、新たな時代の幕開けです。アステリアは海洋という特性を活かした社会を目指し、それに共感する人々が集えばいい。そこに社会の良心がある限り、両者は共存共栄し、互いに良い影響を与えると信じます」

一通りリング・プロジェクトの紹介が終わると、さっそく前列の男性が挙手し、「これだけ巨大なプロジェクトをどうやってマネジメントするのですか」と根本的な質問をなげかけた。

彼は用意していたシートをプロジェクタに表示し、「情報共有ネットワークを使います」と答えた。

「マネジメント部門を中心に、設計、施工、財務、人事など、縦横に部課を配し、プロジェクトマネジメント・ソフトウェア『Open PM』と、コンピュータ支援設計『GeoCAD』を一体化したグループワークで結びます。

リアルタイムの情報共有とオンラインの共同作業で、どこの部課、どの現場からも、必要な情報をすぐに取り出し、設計図の修正や材料の発注などが行えるようにするものです。

これによって時間のロスや伝達の誤りが防げますし、その場で注意を喚起できるので、大きなミスの回避にも繋がります。各自が気軽に提案できるのも、共同意識を高めるのに役立つでしょう。

数千人が関わる大きなプロジェクトですが、グループワーク・システムを使って各部課の進捗や問題点をリアルタイムに把握し、柔軟に対応することで、工期とコストの短縮を図ることが可能です。

一番身近な例では採鉱プラットフォームがあります。

採鉱システムのプロジェクトも、MIGインダストリアル社、エンジニアリング社、アステリア・エンタープライズ社、その他の関連企業や研究機関をイントラネットで繋ぎ、グループワークを行っていました。そのノウハウはリング・プロジェクトにも応用できるはずです。

アステリアでは海洋情報ネットワークの構築に向けて通信インフラの拡充が進んでおり、これに相乗りする形で独自のグループウェアを展開します。またリング・プロジェクトで得られた観測データや実験結果を広く共有し、他の海洋産業や学術研究に役立てる予定です」

「リング・プロジェクトは私業ですか」

「最終的にどのような形態を取るかは分かりません。トリヴィア政府や経済特区管理委員の意向に大きく左右されると思います。当方は私業としてプロジェクトマネジメントすることは一切考えていません。リングは公共の財産です」

続いて、その斜め後ろに座っていた年輩の男性が挙手した。

「これだけの規模の海洋構造物を設置するとなれば、設計荷重として波力や潮流圧の影響を非常に大きく受けるわけですが、算定に必要な実測資料はどのように入手するつもりです。今から計測を開始するなら、信頼のおけるデータを得るまで最低二年はかかるでしょう。それらも含めて『完成まで二〇年』と推定しているのか、あるいは、それ以上か。また実測はどのように行うのか、テスト構造物の設置や実験データの解析、それらを基礎設計にどう生かしていくのか、詳しく説明して頂けませんか」

「リングの設置場所は、ローランド島の南西部、ポルトフィーノ沖を考えています。理由は、海岸から一〇〇キロメートルにかけて平均水深二十五メートルの非常に堅固な海底地盤が均一に広がっているからです。このポルトフィーノ沖は、ローランド島開発が始まった三〇数年前、メガフロート(超大型浮体式構造物)を設置する案が持ち上がり、一六八年から一七三年にかけて波浪や潮流、潮汐、風況など、詳細に観測された経緯があります。また西のポートプレミエルから東のペネロペ湾にかけて複数の航路が存在し、気象、海底地形、波高、潮流など、様々な観測が継続的に行われています。これらのデータも有効活用できるでしょう。テスト構造物の設置については、アステリア土木協会の実験施設で模型実験を行った後、縮小サイズの鋼製ケーソンを設置し、段階的に規模を拡大しながら実施設計に反映する予定です」

「どれくらいの規模と検証期間を想定されているのか、教えて頂けませんか」

彼が少し詰まると、会場の中程に控えていた男性が立ち上がった。ジュン・オキタの実兄で、OKIエンジニアリングの社長でもある。

「リングの構造設計を手掛けた者です。専門的なことは、わたしから説明させて下さい」

と彼の代わりに受け答えした。

二、三、高度な意見のやり取りがあった後、質問者も納得したのか、「了解しました」と静かに着席した。

続いて、後列の女性が挙手をする。

「八兆エルクに及ぶ工費はどうやって捻出するのです」

「それは未定です」

彼は力及ばぬことを素直に認める。

「ただ、パラディオンに二十兆エルク以上の予算を充てると聞いて、ならば、リングにもそれだけの支出ができるのではないかと考えました。もちろん、必要か否かを判断するのは区民の皆さんです。本当に必要とあれば、金策も見つかるでしょう。その点は政府の判断に委ねます」

「あなたは本当にリングがアステリアの発展に繋がるとお考えですか」

「もちろんです」

「しかし、建設したところで、予想より居住者が少ないということも考えられますね。そうなると、建設費が回収できない、設備の維持費が負担になる、という問題も生じませんか」

「では、このように考えてみて下さい。このままアステリアの人口が増えれば、今以上に農地や工業用地が必要になります。発電や貯蔵、産業廃棄物の処理施設の拡充も切実な問題です。

これに対し、湾岸の埋め立て、人工島の建設、河口の干拓など、様々な方策が考えられますが、その設置場所も極めて限定され、根本的な解決には至りません。

また巨大な人工島や浮体式構造物を建設するとなれば、大量の土砂が必要であり、産業道路の拡張、山地の切り崩しに伴う土砂災害、埋め立てによる海岸汚染など、様々な問題を引き起こす恐れがあります。創出できる用地に対して、コストやリスクの方がはるかに上回るのです。

対して、リングは一気に用地を確保します。完成は二十年後ですが、その頃の状況を予想すれば、決して無駄にはならないはずです。

なぜなら、創出された都市空間は、居住以外にも、農地、中小の工場、研究施設、貯蔵など、様々に応用できるからです。

今後アステリアが直面する問題は用地不足だけではありません。人口増加に伴う食糧難を危惧する声も上がっています。

周知のように、店頭に並ぶ食品の大半はトリヴィアからの輸送に頼っています。その需要は右肩上がりに増加し、野菜や果物の品切れに困った人も多いでしょう。アステリアでもグリーンファクトリーや牧場の拡充を図っていますが、とても追いつきそうにありません。

最大の理由は、これも用地不足です。特に家畜に関しては悪臭や病気などの問題もありますから、空き地なら何処でもというわけにいきません。牛一頭を健康的に飼おうとすれば、庭以上に広い牧草地が必要です。

極端な話、リングを丸ごと農地や牧草地に活用してもいいのです。海底面の塩害に関しては、近年、非常に効果的な除塩材や土壌改良材が出ていますし、その技術も年々進歩しています。人々の暮らしを支えるのは工業や観光業ばかりではありません。

『食』という、人間が生きる上で最も重要な要素を支えるのもリングの役目です」

彼は一呼吸おくと、父の思い出を瞼に浮かべた。

「皆さんも想像して下さい。十年後、二十年後のアステリアの姿です。子供は大人になり、親になり、新たな家庭を築きます。人が生きる限り、そこには無限の連なりがある。だが、それも豊かで安らかな大地があってこそです。

アステリア全体をよく見渡して下さい。多くの可能性を秘めながら、その大半は海の底に眠っています。狭い用地を奪い合い、目先の利益ばかりが追いかけ、百年、二百年かけて社会の礎となるものを作ろうとしないからです。

今から数十年後の未来を見据えて巨大な円環ダムを築くなど、まるで無意味に感じるかもしれません。しかし、人間の生は一代限りでしょうか。自分の代だけが豊かで楽しければ、それでいいのでしょうか。

ネーデルラントでは堤防を築く時、『数千年に一度の大水害』を想定します。数千年に一度の大水害など、自分が生きている間に経験する人など稀でしょう。しかし、それは明日にも訪れるかもしれないし、来年かもしれない。今日来なかったから明日も大丈夫という保証はどこにもありません。数十年先、自分がそこに居ても居なくても、現在(いま)を生きる者は長いスパンで社会の礎を築く責任がある。誰の人生も一代限りではなく、現在の綻びは未来の崩壊に繋がるからです。

今、我々の目の前には茫漠とした海が広がるばかりです。この水の底にどんな可能性があるのかと疑いたくなるでしょう。しかし、科学と好奇の目でもって見れば、そこには無数の光の萌芽が眠っているのに気付くはずです。最近になって、ウェストフィリアの海底から虫(ワーム)が発見されたように。もし俺に機会が与えられるなら、『自分もリングの建設に携わった』と誰もが誇りに思える事業にしたい。単なる二重ダムにとどまらない、永遠に続く生命の環です」

Kindle Unlimited (読み放題)

Luctor et emergo

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この記事を書いた人

家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。科学番組の全盛期に子供時代を過ごした影響でSFを書いています。モットーは『Newtonから月刊ムー』まで。かつて宇宙を夢見た少女は深海に魅せられて海洋科学の転向しました。今でもハヤブサより、しんかい派です。

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