第三章 海洋情報ネットワーク ~ファルコン (6)

司厨部のパトリック

司厨部のパトリックは上肢が不自由だがプラットフォームで清掃や洗濯など生活一般の業務を請け負っている。
接続ミッションで華々しい活躍をしたヴァルターを「あなたは、一生、掃除や洗濯をしているだけの人には見えません」と羨むが、自分の腰の据わらない性格を知るヴァルターは「俺みたいに、やる気はあっても腰の定まらない人間の方がかえって使い物にならない」と自嘲する。

6

翌日、ヴァルターは朝食を済ませた後、自室でしばらく情報収集に当たった。

この三週間、寝る間も惜しんで書き続けた海洋情報ネットワークの草案も八割がた完成し、あとはステラマリスの好例を図示して、アイデアに説得力をもたせることだ。海洋調査の歴史においても、観測力においても、ステラマリスとアステリアでは圧倒的に質量が異なるが、未来の手本を示すのは決して無駄ではないだろう。

そうして正午を過ぎた頃、誰かが居室のドアをノックした。

司厨部のパトリックだ。

パトリックはきれいに折りたたまれた繋ぎの作業着を差し出すと、「機械油のシミも、ほとんど目立たないくらい落ちました」と説明した。

「手間を取らせて、すまなかったね」

「まだ甲板掃除するんですか?」 

パトリックが薄茶色の瞳をくるくるさせながら訊くと、

「あと一週間ほどだよ。再来週には新しい仕事に取りかかるつもりだ」

「そうでしょうね。あなたは、一生、掃除や洗濯をしているだけの人には見えませんから」

「どうして? 一生、掃除や洗濯をやり抜くのも一つの才能だよ。俺みたいに、やる気はあっても腰の定まらない人間の方がかえって使い物にならない。ともかくクリーニングをありがとう。今週末にまたお願いするよ」

と、なけなしの持ち金からチップを手渡した。

パトリックは嬉しそうに小銭を制服のポケットに収めると、もう一つ、小脇に抱えていた服を見せ、

「またお嬢さんにお会いになりますか?」

「どこのお嬢さん?」

「理事長のお嬢さんです」

「……ああ、多分ね」

「それなら、忘れ物を届けて下さいますか? 昨日、業者が女性部屋を清掃した時、ロッカーに置き忘れたカーディガンを見つけたそうです。部屋番号から、多分、お嬢さんだろうと思って」

パトリックが小さく折りたたまれた紺色のニットを差し出すと、

「あの子もそそっかしいね」

と照れくさそうに受け取った。

「ここにはもういらっしゃらないんでしょうか」

「どうして?」

「あの方がいらっしゃると、プラットフォームに花が咲いたようになります」

「その言葉を聞けば、彼女も喜ぶよ。今度、顔を合わすことがあれば、そう言ってあげればいい」

「そんなこと、僕の口からはとても……」

「言っていいんだよ。そんな風に褒められて喜ばない人間はない」

パトリックが顔を赤らめると、

「君が心を込めてクリーニングしたとお嬢さんに伝えておくよ、ありがとう」

彼は改めて礼を言うと、静かにドアを閉めた。

紺色のニットは見覚えがある。前にこの部屋で二人きりで話した時、これと同じアンサンブルを身に着けていた。

ロッカーのハンガーに吊すと、折り畳まれたカーディガンの長袖がはらりと開き、あの日、腕に抱いた彼女の身体の柔らかさが生々しく思い出される。

一体、彼女の人柄に惹かれているのか、無垢な身体に興味があるのか、自分でもよく分からない。ただ一つ確かなのは、海への想いも、父親の思い出も、素直に話せる相手ということだ。

マードック夫妻の言う通り、二週間以上、何の連絡もせず、相手の近況も尋ねないのはさすがに失礼と思い、携帯電話に手を伸ばしかけた時、けたたましい呼び出し音が鳴った。娘ではなく父親の方だ。億劫に感じながら電話に出ると、仕事の話だった。

彼はダグやマードック夫妻に語った通り、海洋情報ネットワークの概要を説明し、海上保安や海洋産業に関わる人にプレゼンテーションできないか打診した。アルは二つ返事で承諾し、「近日中に機会を設けよう」と約束した。

彼はそそくさと電話を切ろうとしたが、「まあ、待て」といつもの調子でアルが制した。

「最近、娘にプラットフォームに来るようそそのかしたか?」

「そんなこと言うわけがない。彼女が来たいと言っても、来るなと拒む。本当に必要なら、俺の方から泳いででも会いに行く」

「泳いででも、ねぇ」

「彼女に何があった?」

「大した事じゃない。先日オフィスを抜け出して、また一人で船着き場に行った。たまたま馴染みの港湾作業員が気付いて、すぐに連絡をくれたが、放っておいたら船を間違えてローランド島に行ってしまうところだった」

「何故そんな事に? よほどの理由がなければ、彼女だってそんな軽率な真似はしないはずだ。どうせトリヴィアに帰れとか何とか、彼女の望まぬことを強要したんだろう」

「よく分かったな」

「あんた、最低だよ。セキュリティの重要性も分かるが、何から何まで娘をがんじがらめにして、幸せに生きられるわけがない。有数の資産家に生まれて、夜に広場でビールを飲んだり、銀ラメのドレスを着てパーティーに出掛けるのが『夢』だって。いったい、いつの時代の女学生だよ?」

「お前にとやかく言われる筋合いはない。ビール一杯の楽しみと引き替えに安全が守れるなら易いものだ。ともあれ娘はトリヴィアに連れて帰る。元の居場所に戻れば、娘も自分の本分を思い出し、二度とお前と顔を合わすこともないだろう。別れを言うなら今のうちだ。わしとしては、きれいさっぱり縁を切ってもらった方が有り難いがね」

「俺にはそれが彼女の本心とは思えない。あんたが彼女の意向を無視して、無理矢理トリヴィアに連れて帰るというなら、俺にも考えがある。あんたに憎まれようが、恨まれようが、俺には痛くも痒くもないんだからな」

「駆け落ちでもする気かね」

「そういう意味じゃない。彼女がここで暮らしたいなら、俺も協力すると言ってるんだ」

「どんな風に?」

「もし彼女がここに残るなら、俺も責任もって面倒を見る。男女の話ではなく、友人としてだ。セキュリティの決まり事があるなら、それに準じて行動するし、彼女があんたとの約束を無視して、一人で何処かに出掛けたいと望んでも、俺なら絶対に反対する。あんたなら住み込みのメイドや女性ボディガードを雇う財力があるだろう。籠の鳥みたいに閉じ込めなくても、いろんな方法があるはずだ」

「それはまた随分と頼もしい話だな」

「当たり前じゃないか。無理矢理トリヴィアに連れ戻されて、毎日涙に暮れるより、ここで綺麗な海を見ながらのんびり過ごした方が、彼女もどれほど幸福かしれない。みすみす不幸になると分かって、黙って見ている男がどこにいる。俺は本気だぞ」

「本気ね」

アルはにんまりした。

「お前の気持ちはよく分かった。今後を考える参考にさせてもらうよ。ちなみに娘がオフィスを抜け出して一人で船着き場に行ったというのは作り話だ。娘もそこまで愚かではない」

「なんだって?」

「作り話だと言ったんだ。娘は健気に務めているよ。毎日お前のことで哀れなほど思い詰めてはいるがね」

「かましやがったな!」

「まあ、これも一つの試金石だ。悪く思うな」

彼が怒りにまかせて空のペットボトルをデスクに投げつけると、アルは鼻先で笑い、

「前に言っただろう。娘のためなら鬼にも蛇にもなると。おかげで、お前の本心が聞けて安心したよ。心配しなくても、今、お前が口にしたことは永久に黙っといてやる。娘の前で恥をかくこともないから安心しろ」

「俺は今日のことは絶対に許さない」

「それで結構。わしには娘の方が百倍大事だ。お前が恥をかこうが、後悔に泣き濡れようが知ったことじゃない。それにしても、お前もよくよく騙されやすいな。次に書類にサインする時は、もうちっと慎重になれ」

彼が再びペットボトル投げる前に、アルは電話を切った。

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この記事を書いた人

石田朋子

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。科学番組の全盛期に子供時代を過ごした影響でSFを書いています。モットーは『Newtonから月刊ムー』まで。文芸とサイエンスを融合した新しいスタイルの作品を手掛けています。

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