第二章 採鉱プラットフォーム ~ミッション開始 (3)

案外、可愛い子だったな ~リズの思い出

採鉱プラットフォームの初日、ヴァルターは桟橋でアル・マクダエルの愛娘リズと出会い、一緒に海に落ちる。第一印象とは打って変わって可憐な面影にヴァルターも顔をほころばせるが、それ以上の気持ちは無用だ。アルの娘と関わっても、どうせろくなことはない。
シャワー室で汚れを落とし、鏡の前で身繕いするが、ヴァルターは未だに自分の顔を正面から見ることができない鏡恐怖症だった。

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同じ頃、ヴァルターは補給船の甲板で濡れたシャツを脱ぎ、自然乾燥を試みた。粗品のバスタオルは娘にやった為、手持ちは一枚もない。見かねた乗務員がハンドタオルを貸してくれたが、チノパンもスニーカーもずくずくで、とても短時間で乾きそうにない。

それでもセス・ブライトに電話を入れ、リズの事を問い合わせると、「お嬢さんなら僕の家に居る。理事長は会議中で今すぐ対応できないが、君の謝意は伝えておくよ」とのこと。父親の怒りをかって追い出されたら、その時はその時だ。偉い人を怒らせるのは、これが初めてではない。何にせよ、娘が専務の家で介抱してもらえるなら安心だ。

そうして甲板で過ごすこと一時間半。身体も冷え、じっと立っているのも辛くなってきた頃、採鉱プラットフォームに到着した。

補給船の甲板後部の開閉式手摺りが開放され、プラットフォームから突き出した伸縮格納式の係留設備に船尾から接舷すると、補給船の乗務員が係留ロープを投げ、待機していたプラットフォームの作業員が手早くロープを拾って、ピットに掛けた。

双方の連結装置が固定され、浮き橋のように渡道ができると、小型の貨物が移動台車で次々に運び出され、ヴァルターは他の交代要員と共にプラットフォームに移乗すると、セス・ブライトに指示された通り、ブリッジに向かった。

タワーデリックの辺りまで来ると、たまたまその場に居合わせたプロジェクト・マネージャーのダグラス・アークロイドが、「おい、見ろよ。初日から海に落ちた奴がいるぜ」と冷やかし、側に居たガーフィールド・ボイルも赤茶色の顎髭をさすりながらガハハと笑った。

だが、彼は眉一つ動かさず、ずんずんと大股で甲板を突っ切って行く。

ブリッジに着くとエレベーターで五階に上がり、最初に総務室を訪ねた。

突き当たりのドアを細めに開き、一番近くにいた若い男性事務員に声をかけると、間仕切りの向こうから黒縁の丸眼鏡をかけた中年女性が顔を見せた。セミロングの黒髪をべっ甲のバレッタで後ろに束ね、地味な濃紺スーツを着ているが、控えめに化粧をほどこした口元が何とも言えず色っぽい。

ヴァルターが実名を告げると、女性は心得たように「ヴァルター・フォーゲルさんね」と言い直した。

「通名でいいんですか?」

「ここではよくあることよ。中国名やキリル文字やアラビア語だと、そのままでは読めない人も多いでしょう。便宜的に英語風のビジネスネームに置き換えるの。たとえば雪麗(シユエリー)をSherry(シェリー)と表記したり、Ёкуб(ヤクブ)をJacob(ジェイコブ)に置き換えたり。ちゃんと住民課に届け出れば問題ないわ。中には複数のビジネスネームを使い分ける人もあるくらい。あなたのフォーゲル姓も、ビジネスネームとして、ブライト専務が登録されたのではないかしら」

女性はてきぱきと説明しながら、壁際のキャビネットから居室のカードキーを取り出した。白い非磁気性のプラスチックカードで、先端に一〇個のパンチ穴が開いており、赤茶色の革製ホルダーと一体になっている。

「あなたの部屋は三階の三号室よ。勤務ローテーションの都合で居室が変わることがあるから、出る時は私物の置き忘れに気を付けて」

彼がカードキーを受け取ると、彼女は丸眼鏡の奥で黒い瞳を瞬き、

「可哀相に。波でもかぶったの? 三階にも共同シャワー室があるから自由に使うといいわ。たまにお湯が止まるけど、五分も待てば再開するから。それから間違っても水道の水を口にしないでね。浄水プラントで海水を浄化してるけど、設備が古くて、あまり水質がよくないの。飲み水が欲しい時は調理室に行くといいわ。ミネラルウォーターのボトルをくれるから」

「そういうの、馴れてますから」

「だったら、話は早いわね。ここも新しい人が時々来るけど、七割は最初の一週間で音を上げるわ。周りは海ばっかりで、居住区も限られてるから。でも、馴れたら意外に楽しい所よ。気に入ってくだされば嬉しいわ」

「あなたも長いんですか?」

「そうね、かれこれ十年ばかり。夫がここで仕事をしてるから」

「じゃあ、これからもよろしく。ミセス……」

「マードック。カリーナ・マードックよ。あなたが夫の新しいパートナーね。夫が一緒に仕事するのを楽しみにしていますよ」

*

直通階段で三階に下りると、フロアの大部分が居室で、廊下の突き当たりに共同浴室と娯楽室があった。通路は安普請のように狭いが、居室は一人部屋で、甲板に面した窓から明るい光が差し込んでいる。

居室の左側に宮付きのベッドがあり、ホテルのシングルサイズより一回り小さいが、天井部がキャビネット、ベッド下が引き出しになっていて、枕元にはLED電灯やオールインワン型の接続ポートも備わっている。

ベッドの隣にはワーキングデスクと椅子、縦長のロッカーがあり、戸口には電磁調理器付きの簡易キッチン、冷蔵庫、小さなソファセットもある。しかもシャワーの使えるユニットバスまで付いており、海上施設にしては上出来だ。

彼はとりあえず荷物をロッカーに入れると、共同浴室でシャワーを浴びた。

五つのシャワーブースは化粧板で仕切っただけの簡素な作りだが、清掃が行き届き、びっくりするほど温湯が出る。備え付けのシャワージェルをたっぷり手に取り、髪や身体を丹念に洗うと、嫌な臭いも消えて、気分もすっきりした。

まさかあんな小娘に海に引きずり込まれるとは夢にも思わず、油断大敵とはこの事だ。夕べも航行する船の前を横切ったり、パパに内緒で補給船に乗ろうとしたり、大企業のカリスマ経営者も娘には激甘と見える。

しかし、これに懲りて、二度と海に出ようなどと思わないだろう。嬢ちゃんは嬢ちゃんらしく、フィットネスプールでダイエット運動でもしてりゃいいんだ。

彼は手早くシャワージェルを洗い流すと、ここ数日のご馳走で、腕も胸板も以前の張りを取り戻したことを実感した。何と言っても、海の仕事は体力勝負だ。雨風に当たっただけで風邪をこじらせ、時化の度に頭痛で寝込むようでは海洋学者でも務まらない。

それに比べて、嬢ちゃんのキュウリみたいに細いこと。胸も腰もひょろひょろで、よくあんな身体で男たちに混じってプラットフォームに行こうなどと考えついたものだ。

(でも、案外、可愛い子だったな)

海の滴のような彼女の瞳を脳裏に浮かべ、ほのぼのした気持ちになった。

ちょっとした悪戯心で掴まえてみれば、生意気なメカジキではなく、カクレクマノミみたいに臆病な小魚だった。出目金みたいに大きな目をして、グッピーみたいに泣き虫で。

今時、男に触れられたぐらいで、金魚みたいにぷるぷる震えだす女の子が存在するとは驚きだ。先カンブリア時代に絶滅した古代魚の一種か、はたまた水深一万メートルに棲息する未知の深海生物か。今までどこの珊瑚礁に潜んでいたのか、あんな珍種が存在するとは夢にも思わなかった。

もう一度、近くでじっくり見てみたい気もするが、あれは『アル・マクダエルの娘』だ。関わっても、どうせろくなことはない。

シャワーを終え、タオルで髪を拭いながら洗面台の前に立つと、曇った鏡にいつものしけた面構えが映る。陰気で、堅苦しくて、白鳥の騎士みたいな父とは大違いだ。

自分の顔がぐにゃりと曲がったように見えたのは、いつの日のことだったか。

フォンヴィエイユに引っ越して間もない頃、顔半分が引き攣ったような違和感があり、ちらと鏡を見ると、右の顔半分がデスマスクのように固まって見えた。あれは思い込みなどでは決してない。本当に顔が歪んでいたのだ。

母に訊ねると、そういう時期もあったけれど、今はすっかり全快して、どこも悪くないと言う。だが、顔の違和感は今も続いており、皆、腹の底では嗤っているのではないかと不安に駆られることもある。

だが、何より辛いのは、自分のしけた面構えのせいで、父の美しい思い出がだんだん歪められていくことだ。

父を亡くしてから、十六年。

今では父がどんな顔で笑い、どんな声で励ましてくれたか、よく思い出せない。父が大切に撮りためた写真もビデオも、洪水でホームサーバーが流された為、彼の手元には一つも残ってないからだ。カールスルーエの祖父母が大事に取ってくれた家族写真も幾つかあるが、それを目にする勇気もなく、父の記憶は時間と共に薄れる一方だ。僅かに残る父の記憶を、自分のしけた面構えで壊したくない。

だから理髪店にも行かないし、洋服も全て通販で買う。

前に職場の人に「カジュアルチェックのシャツが似合う」と言われて以来、カジュアルチェックのシャツばかり着ている。それも、その時に着ていた『C&C』というブランドの製品ばかりだ。自分の服のサイズを登録しておけば、月に一度、「あなたへのおすすめ」というダイレクトメールが届く。その中から適当に選ぶのが彼のスタイルだ。最近はそれすら億劫で、同じ柄の色違いを何年も着回している。

身繕いが済むと、彼は予備のジーンズとTシャツに着替え、タワーデリックのオペレーションルームに向かった。「自分で考えろ」の言葉通り、自分で考えた結果だ。

強化ガラスとスチール製格子に守られた半円形のスペースでは、自分と同じ年頃の男性二人がガラスウォールに面した二つの主操縦席に座り、ジョイスティックやパワーグローブ(手袋式のコントローラー)を用いて無人潜水機を操作している。メインモニターは採鉱区の海底なのか、水深に応じてカラフルに画像処理された映像が映し出されている。

入り口のインターホンを押すと、若いオペレーターが「マードックはレベル・マイナス2のエンジン制御室で機械の調整中だ」と答えた。つまり下層二階だ。

足早に階段を降り、エンジン制御室に向かおうとしたら、近くに居た作業員に呼び止められた。

「おい、ヘルメットを付けろよ。作業着は?」

まったくどうかしている。基本中の基本を忘れるとは。

彼は予備のヘルメットを借りると、ムーンプールに面した通路をゆっくり歩いた。

外は好天だが、ムーンプールの中は白波が立ち、十数メートル下の海面に吸い込まれそうになる。各階に高さ一メートルの黄色い安全柵が張り巡らされているとはいえ、間隙だらけだ。ベテラン作業員でも油断すれば、あっという間に落水する。海上施設には慣れているが、足元から突き上げるような波音を聞いていると、少なからず恐怖を感じる。

エンジン制御室はムーンプールに関連する機材のコントロールと作業の監督を行う『第二の管制室』だ。前面は大きな強化ガラスに守られ、三階層に及ぶムーンプール周辺を一望することができる。また、水中無人機や採鉱用機材を海中降下する為のパワーケーブルやアンビリカブルケーブルの「送り出し」と「巻き取り」を行う部署でもあり、制御室に隣接する巻き取りユニットのエンジンルームは小型船舶の機関部を彷彿とさせる。

今、タワーデリックのオペレーションルームで二人のオペレーターが水中無人機を操作中だから、その監視も兼ねて、マードックも階下のエンジン制御室に降りてきたのだろう。

彼がインターホンを鳴らすと、エンジン制御室の奥で数人のスタッフと話し込んでいたマードックが振り向いた。

マードックは皆に断りを入れると、すぐに顔を出し、

「やあ、いらっしゃい。オペレーションルームで待っているつもりだったが、急用ができたのでね」

と優しいオランダ語で答えた。

「まずはヘルメットと作業着をもらえないか」

「おや、僕の奥さんは何も渡さなかったのかい」

「居室のカードキーだけだ」

「まいったな。朝、何度も念を押したのに。それじゃ、五分ほど中で待ってくれないか。話が済んだら一緒に総務部に寄って、それから資料室に行こう。採鉱システムについて説明するよ」

マードックは再びミーティングの輪に戻ると、自分より年配の作業員に二、三、指示を出し、モニターを一望して、その場を離れた。

水と機械音がゴウゴウと響き渡る通路を一緒に歩きながら、「まずは君の希望を聞かせてくれないか」とマードックが訊いた。

「マクダエル理事長は君の判断に任せると仰ってた。海洋調査に関する仕事がしたいなら、それで構わないし、他にやりたい事があるなら、別の部署を紹介するよ」

だが、彼は頭を振り、

「ここに来たからには採鉱システムに関わりたい。ステラマリスでも経験できなかった事だ。どんな風にするのか見てみたい」

「それならいいんだ。海洋調査とは随分勝手が違うが、君が興味をもって取り組むなら、僕も根気よく教えるよ」

彼は意外な気持ちでマードックの顔を見上げた。本採鉱を四十日後に控え、新人などお荷物でしかないだろうに、こんな親切な人もいるのだな。

二人が揃って総務部を訪れると、ミセス・マードックは女学生のように上気しながら、「ごめんなさいね、すっかり忘れてたわ」と彼に白いヘルメットとオレンジ色の作業着を手渡した。彼がずぶ濡れで現れたので、そちらに気を取られたらしい。

それから夫と少しプライベートな会話を交わした後、ミセス・マードックは速やかに持ち場に戻り、二人は総務部を後にした。

マードックの話では、夫妻に子供はなく、一緒に島とプラットフォームを行ったり来たりの生活らしい。プラットフォームに滞在する時は四階の二人部屋を使っていて、時には仕事のスケジュールが合わず、数日を別々に暮らすこともあるそうだ。

「共働きも大変だね」

「慣れたらそうでもないよ。プラットフォームに暮らしていると、余計な金を使わずに済む。飲み歩くこともなければ、スーパーで無駄買いすることもない。その分貯蓄して、いつか海辺に庭付き一戸建てを買うのが夢なんだ」

「それは楽しみだね」

「若い連中は皆ここが好きだ。理由も同じ。三食付きで、金が貯まる。オフの時は仲間と夜通し酒とゲームで遊べるし、うるさい母ちゃんもいない。唯一の悩みといえば、なかなか女の子と知り合う機会がないことだが、それもオンライン・コミュニティで適当に見つけている。慣れたら、案外、楽しい職場だよ」

彼は適当に相づちを打ちながら、後者には縁がないと思った。

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この記事を書いた人

石田朋子

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。科学番組の全盛期に子供時代を過ごした影響でSFを書いています。モットーは『Newtonから月刊ムー』まで。文芸とサイエンスを融合した新しいスタイルの作品を手掛けています。

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