第一章 運命と意思 ~ローエングリン (2)

意思と表象としての世界

父親と喧嘩して家を飛び出した高校生のグンターは、ブレーメン行きの列車の中でショーペンハウアーの名著『意思と表象の世界』を読み耽る少女に出会う。彼の悩みに対し、彼女が口にしたのは、「アフシュライトダイク(締め切り大堤防)に行ってみれば?」というアドバイスだった。グンターは締切堤防のダイナミズムとオランダの治水技術に惹かれ、土木技師の道を志す。

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十六歳の夏休み、グンターはバックパックと折りたたみ自転車を携えて、周辺諸国を旅した。長距離バスやユーロレイルを乗り継ぎ、巡礼のように歴史的建造物や文化遺産を見て回る。

最後にバルト海を訪れ、ドイツ北部のブレーメンを経由してカールスルーエに戻ろうとした時、人生を決定づける出来事があった。ブレーメン行きの電車の中で、Der Engel des Abschlussdeich(大堤防の天使)に出会ったのだ。

彼女はグンターの真向かいに座り、熱心に本を読んでいた。

ショーペンハウアーの『Die Welt als Wille und Vorstellung(意志と表象としての世界)』。

年は同じくらい、肩まで垂らした赤い癖毛をべっ甲のバレッタでぶっきらぼうに留め、男の子が好むようなエアクッション入りのスポーツシューズを履いている。服装は白いポロシャツにブルージーンズ、膝の上には擦り切れた小型リュックを抱え、お洒落はまるで構わぬ様子だが、セルロイド眼鏡の奥で文字を追う薄茶色の瞳は戦乙女のように怜悧で美しかった。
グンターの視線に気付くと、彼女もふと顔を上げたが、彼と目が合うと慌てて俯き、じゃがいもみたいな顔を耳の付け根まで赤らめた。それがショーペンハウアーとは対照的に、天使のように可愛く見える。

「それ、『意志と表象としての世界』だね。ショーペンハウアーが好きなの?」

グンターが声をかけると、女の子も今度は落ち着き払って顔を上げ、

「昨日から読み始めたところよ。好きかどうかは、まだ分からないわ」

ときびきびした口調で答えた。

「でも、そんな難しい本が読めるなんてすごいね。僕も前に試したけど、正直、僕には難しすぎて、最初の数ページで挫折したよ」

「どこが、どう難しかったの?」

女の子が怜悧な瞳を閃かせると、

「最初の一文からさ。『*16世界は私の表象である』。その意味がどうにも実感できなくて」

「言葉通りよ。世界はあなたの表層なの。難しく考えないで」

女の子が励ますように微笑むと、グンターも顔をほころばせ、「他にどんな本を読むの?」と身を乗り出した。

それから二人は好きな作家や、これまでに感銘を受けた作品について夢中で語り合った。

女の子は彼と同じ十六歳で、デンマークの国境に近いハンデヴィットという町に住んでいた。これから母方の祖父母に会いにブレーメンに向かう途中だ。

グンターは彼女の名前を尋ね、自らも名乗ろうとしたが、彼女はすぐに頭を振った。

「名前を知ったら忘れられなくなるわ。賢いあなたなら、どういう意味か分かるでしょう。あなたのことは『ローエングリン』として記憶したい。いつまでも美しい夢であって欲しいから」
グンターはいささかがっかりしたが、女の子が望むなら仕方ない。これほど思慮深く、知的な女の子もまたとないのだが。

「あなたは何所へ行くの?」

「分からない」

グンターは父と喧嘩してここまで来た経緯を打ち明けた。

女の子はじっと彼の話に耳を傾けていたが、

「私もあなたのお父さんに賛成よ。あなたは心外でしょうけど、あなたはスポーツ界のスーパースターを目指すより、その秀でた頭脳と気高い心を万人の為に役立てるべきよ。第一、あなたに熾烈な競争は向かないと思う。人気と技術を切り売りして、ライバルを蹴落とすには、あまりに心が美しすぎるもの」

「……」

「そんな顔をしないで。褒めてるのよ。どこにでもいるタイプなら『好きにすれば』で済ますけど、あなたには誰よりも幸せになって欲しいから。お父さんもきっと同じ気持ちだと思うわ。白鳥の騎士にはそれにふさわしい活躍の場があるはず。誰もがサッカーの神々の仲間入りをすれば幸せになるわけじゃないわ」

「だけど、他にどうすればいいのか分からない。お父さんはいつも『大きな志をもて』と言うけど、僕には何が志で、どこからが夢なのかも分からない。それに何かを志したところで、どうせ認めてはもらえないと思うと、だんだん自分が無くなっていくみたいで……」

「あなたは何を夢見てもいいし、何を志してもいいのよ。お父さんに認められようと、無視されようと、あなたの意思はあなた自身のものじゃない。ただ、その中には選ばない方がいい道もある。お父さんはブンデスリーガを目指すあなたの判断に不安を抱いているだけで、決してあなた自身を否定しているわけじゃないのよ。その気持ちは私も同じよ」

「……」

「そうだ、あなた、大堤防に行ってみなさいよ」

「大堤防?」

「アフシュライトダイクよ。ゾイデル海と北海を仕切る締め切り大堤防。あれを見れば、人間の意思がどれほどの事が成し遂げるか、一目で理解できるわ。人間は自分の人生を生きる為だけに命を与えられているわけではないことも」

女の子とはブレーメン駅で別れた。

約束通り、最後までお互いの名前を明かすことはなかった。

*

グンターは締め切り大堤防の東の起点に近いボルスヴァルトに行く為、ブレーメンから西行きの高速バスに乗り、国境を越えたウィンスホーテンでローカルバスに乗り換えた。

それからフローニンゲン、ドラハテン、ヘーレンフェーンを通過し、ようやくボルスヴァルトに辿り着いた頃には小遣いも底を尽き、母に三〇〇ユーロの援助を求めねばならなくなった。

グンターが真っ直ぐカールスルーエに帰らず、ネーデルラントに足を伸ばしたと知ると、母はずいぶんショックを受けたが、「大堤防を見るだけだ。三日後には必ず帰るから」と約束すると、母も納得し、「ちゃんと帰って来るのよ。お父さんも深く反省してらっしゃるから」と念を押した。

銀行に三〇〇ユーロが振り込まれると、グンターは久しぶりにレストランでお腹いっぱい食べ、ネーデルラント名物のストロープワッフル*17も味わった。その日はレーワルデンの民宿でゆっくり身体を休め、次の朝早く、ローカルバスに乗って大堤防に向かった。

高速道路を半時間も走ると、前方に紺碧の海が見えてくる。

朝日がきらきら反射して、まるで世界中が歓喜に輝いているようだ。

高地に育ったグンターは、火山学者の父の影響で、旅に出るといえば山岳ばかり。海はほとんど訪れたことがない。

父はネーデルラントを『低地(ニーダーランド)』と呼び、「あんな干潟みたいな土地は、この世の終わりが来たら真っ先に海に沈む」「北海とライン河に挟み撃ちされた場所に建国するとは物好きな連中だ」「今の世界的な異常気象を知れば、わたしなら真っ先にあの海岸線から逃げ出すがね」と批判的だが、今目の前に広がる低地(ネーデルラント)の美しさはどうだろう。まるで水と緑が溶け合うように輝き、豊かな干拓地が果てしなく続いている。運河沿いには絵本から抜け出たような切り妻屋根の家が建ち並び、まるでお伽の国を旅しているみたいだ。この美しい国土が何世紀もかけて人の手で創出されたとは、なんという奇跡だろう。幾度となく水に沈んでも、その都度、立ち上がってきた。

やがてフロントガラスの向こうに大堤防が見えてくると、グンターはその長大さに目を見張った。

アフシュライトダイク(締め切り大堤防)は全長32キロメートル、幅90メートル、海抜約7メートルの世界屈指の大堤防だ。Anno Dominiの時代、1927年から1932年にかけてゾイデル内海と北海を仕切る形で建設された。

古来より、ネーデルラントは高潮や洪水に苦しめられ、堤防や運河の建設が国家的事業として推し進められてきた。

わけても二十世紀初めに実施されたゾイデル海開発計画は、北海の高潮から陸地を守り、干拓地を拡張することを目的とした一大事業で知られる。

その一環として建設されたアフシュライトダイクは、文字通り海を締め切り、干拓地を守る治水の要所として国を支えてきた。それは今もモーセの奇跡のように大海原を二つに分かち、豊かな国土を創出している。また、堤防上面には片側二車線の快適な自動車道路が敷設され、複数の河口に分断されたネーデルラントの沿岸部を一つに結ぶ主要な交通路の役割も果たしている。

グンターは堤防中央のパーキングエリアでバスを降りると、展望台やスチール写真*18を見て回った。

沿道のパネルには、発案から完成に至るまでの里程標や昔の水害の様子、人力で一つ一つ石を積み上げ、旧式のクレーンや作業船で土砂を投入する様子が展示されている。ハイテク重機もコンピュータも無い時代、ネーデルラントの人々はどうのようにしてこの巨大建設を成し遂げたのか、グンターには想像もつかない。

パーキングエリアの脇には、腰をかがめ、両手で石を積む工夫のモニュメントが設置され、当時の苦労を今に伝えている。また展望台の入り口に掲げられた、石と棒具を手にした三人の作業員の記念碑も印象的だ。

そして、沿道には、プロジェクトを指揮したコルネリス・レリー(Cornelis Lely)の銅像が建立され、海に向かう英雄のように祖国の行く末を見守っている。

それらを見るうち、グンターの脳裏に「God schiep de Aarde, maar de Nederlanders schiepen Nederland.(この世界は神が創り給うたが、ネーデルラントはネーデルラント人が造った)」という諺が浮かび、人間の圧倒的な意思の強さに畏敬の念を覚えた。たとえ一人一人の名は歴史に残らずとも、その思いは一枚岩のように祖国の礎となり、現在(いま)を支えている。それは父の叱責に怯え、自分の意思を強く表明することもできない自分がちっぽけに感じるほどだった。

カールスルーエに戻ると、グンターはネーデルラントの治水事業に興味を持ち、本を読んだり、記録映画を見たりして知識を深めた。高校卒業後は地元の工科大学に進学し、治水工学を中心に学んだ。

ここ数年、世界的な気温上昇や異常気象により極地の氷床崩壊や海面上昇が著しく、ネーデルラントはもちろん、海抜の低い島国や、十分に整備されていない湾岸地域では、以前に増して国家的対策が叫ばれている。その点では父と共感する部分も多く、自然科学と工学の両面から議論も弾む。

将来はネーデルラントに行く意志を固めると、「なぜドイツ人のお前が低地の堤防に身を捧げるんだ」と父は不快感を露わにしたが、「『大きな志を持て』と言ったのはお父さんですよ」と今度は引き下がらない。今、ネーデルラントで進められている『第二次デルタ計画』に加わりたい願いもあり、大学を卒業するとゼーラント州の治水局に職を得て、フェーレという町に移り住んだ。

フェーレは全長350キロメートルに及ぶ広大なフェール川の河口にある小さな港町だ。

遠くフランスに源流をもつフェール川は、ベルギーのアントウェルペンの西側を通ってネーデルラントに入り、北海に流れ込んでいる。運河によってライン川やセーヌ川とも繋がり、近隣諸国にとって政治的にも文化的にも非常に重要な水路の一つに数えられる。それだけに、ひと度川が氾濫すれば、海面より低いゼーラント州の大半の土地はあっという間に浸水し、甚大な被害をもたらす。特に河口周辺は過去に何度も大洪水に襲われ、Luctor et Emergo(わたしは闘い、水底(みなそこ)から姿を現す)が州の標語になったほどだ。

フェーレをはじめ、フェール川周辺の町と干拓地を水害から守るため、四世紀前に築かれたのが河口の締切堤防だ。1800人以上が死亡もしくは行方不明となり、二十万もの人々が家を失った大洪水の教訓から、ネーデルラント政府は国家的な治水事業『デルタ計画』を実施し、全長3キロメートル、幅170メートルに及ぶコンクリートダムを建設して、フェール川と北海を仕切った。堤防によって締め切られたフェール川は平均幅一・五キロメートルの細長い塩湖となり、ヨット、水上スキー、カヌー、ダイビングなど、マリンスポーツのメッカとなっている。

また塩湖の東側には「フェールダム」と呼ばれる総面積120キロメートルの広大な干拓地が広がり、ゼーラント州の主要な農用地となっている。

フェールダムは、元々、熊手のように広がるフェール川河口の中州で、脆弱な土地だったが、数世紀にわたる干拓事業によって総面積120キロメートルの広大な干拓地に生まれ変わった。干拓地の西側と南側はフェール塩湖に接し、湖畔には美しいデンボンメルの森が広がって、防災と浄化の役割を果たしている。海に面した北側は15キロメートルにわたって盛土堤防に守られ、さながら細長い緑の砦のようだ。堤内地には豊かな農地が広がり、伝統的な切り妻屋根の家屋やお洒落な新興住宅が彩りを添えている。また北側から東側にかけては、最大幅10キロメートルに及ぶフェール川の下流に面し、河口には長さ8キロメートルの可動式大防潮水門が敷設され、水量調節と交通路の役割を果たしている。

フェールダムは、まさに『Luctor et Emergo』を体現する治水技術の結晶だ。水と緑に彩られたネーデルラントらしい風景が果てしなく広がっている。それだけに仕事もやり甲斐があり、社会の生命線を守る重みを日々噛みしめている。

治水局に入局してから最初の四年は、河川や土壌の観察、堤防や排水施設の点検、データ分析など基礎調査に取り組み、知識と経験を積み上げた。五年目の今年こそ、上級技師の資格試験に合格し、いつかは第二次デルタ計画の中核メンバーとして国家的な治水事業に携わりたい。自らが堤防となり、常しえに社会の礎となるように。

*16) 『意志と表象としての世界(中公クラシックス)』ショーペンハウアー 西尾幹二(訳)
冒頭より引用《「世界は私の表象Vorstellung(目前に見るように心に思い描くこと。心象、想像、観念など広い意味をふくむ)である」――これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である》
*17) ストロープワッフルとは 薄い円形ワッフル生地の間にキャラメルシロップを挟んだ伝統菓子。
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2018年に撮影した写真やアフシュライトダイクのCM動画もまじえて、締め切り大堤防の魅力やコルネリス・レリーの偉業を紹介しています。
【コラム】『ネーデルラントはネーデルラント人が作った』
【写真と動画で紹介】アフシュライトダイクと締め切り大堤防について
【哲学コラム】意思と表層の世界について。

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オランダの治水と締め切り大堤防 ~アフシュライトダイク(締め切り大堤防)
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この記事を書いた人

石田朋子

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。科学番組の全盛期に子供時代を過ごした影響でSFを書いています。モットーは『Newtonから月刊ムー』まで。文芸とサイエンスを融合した新しいスタイルの作品を手掛けています。

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