第一章 運命と意思 ~ローエングリン (4)

治水と国つくり ~父親として

グンターは最愛の女性アンヌ=マリーと結ばれ、息子ヴァルターに恵まれる。赤子の世話に戸惑うグンターに「父親の出番は10年後。あなたの助けが必要になる」と説く。そんなヴァルターにグンターは堤防と治水の重要性について語って聞かせる。

14

それにしても、父親って何をすればいいのだろう?

ちっちゃなヴァルターは二、三時間おきに目を覚ましては、オギャアオギャアと泣き叫ぶ。何が欲しいのか、どこが不快なのか、グンターにはさっぱり分からない。顔を真っ赤にし、手足をばたつかせる度に、小さな身体を抱えてオロオロするばかりだ。

それに比べて、アンヌ=マリーは母乳を含ませ、てきぱきとオムツを替え、まるで生まれながらに「お母さん」だ。フランス語の子守歌を歌いながら、ちっちゃなヴァルターを寝かしつける彼女の隣でベビー服をたたみながら、「男親って、情けないものだな。いざとなると何も出来ない」と呟く。

父親の出番は十年後よ」とアンヌ=マリーが励ます。

「この子が人生の指針を求めるようになった時、必ずあなたの助けが必要になる。女の私に男の生き方は教えられないから。あなたなら、きっと素晴らしい人生の導き手になるわ」

十年後。

今は想像もつかないが、その日はすぐに来るのだろう。

どんな時も支えになってやれるだろうか。

自分自身の事さえ覚束ないというのに――。

*

そんな親の不安をよそに、ヴァルターはすくすく育っていく。

寝返り、お座り、離乳食。

生後八ヶ月には掴まり立ちし、家の中を元気に這い回って両親と祖父母を喜ばせた。

その日も書斎で仕事をしていると、戸口の向こうからペッタンペッタン、床を這う音が聞こえてきる。パソコンデスクから首を伸ばすと、ヴァルターが戸口の前でにこにこしながら、父親の姿を見ていた。

「僕が何をしているか見に来たのかい?こっちにおいで、僕の仕事を見せてあげるよ。

これが図面。

こっちがパース。

これはGeoCAD(ジオキヤド)といって、世界中のアーキテクトやエンジニアが愛用しているコンピュータ支援設計アプリケーションだ。

この編集画面はフェールダムの締切堤防。

いずれ、あの堤防も補強が必要になる。

第二次デルタ計画で適切な措置がなされるよう、皆でいろんな意見を出し合っているところだ。

この堤防はフェールダムの生命線だ。

一見、普通のコンクリートダムに見えるが、緻密な計算の元に設計された、素晴らしく頑丈な堤防だ。

だけども、ここ数年、深刻な異常気象が続いている。

冬の高潮。夏の豪雨。季節外れのブリザード。

この数百年、何も無かったからといって、この先、数百年も何も起きないとは限らない。

国作りする者は、何十年、何百年後の未来を見据えて、国土を築く必要がある。

僕の仕事は治水の問題点を見つけ出し、改善策を提示することだ。

地味な仕事だけど、やり甲斐がある。

何と言っても、お前の将来に関わる話だからね。――あっ、それは触っちゃ駄目だよ。せっかく描いた図面がめちゃくちゃになるからね。

君のマウスはこっち。木彫りのマウスだ。君の為にこしらえたんだよ」

木片を丸く切り抜き、ヤスリでつるつるに磨き上げた木製マウスを手渡すと、ヴァルターは舐めたり、噛んだりしながら、海のように碧い瞳をぱちくりした。

「君は大きくなったら何になるんだろうね。詩人、エンジニア、それともサッカー選手?誰の人生も一度きりだ、悔いのないように楽しんで。そろそろ君もお腹が空いただろう。ママンの所に行ってリンゴのコンポートを食べよう。その後でお風呂に入って、寝んねしようね」

ヴァルターを抱き上げてキッチンに行くと、申し合わせたようにアンヌ=マリーがリンゴとニンジンのコンポートを作っている。

「そろそろお腹が空くだろうと思って、お鍋をかけてたの。あなたも少し召し上がる?」

アンヌ=マリーはヴァルターをベビーチェアに座らせると、手早くゴム製の食事エプロンを首にかけ、少し冷ましたコンポートをてきぱきと皿に取り分けた。この家に来た時はオーブンの使い方も分からず、調理に失敗してしくしく泣いていたのに、今では「しっかり者のお母さん」だ。

グンターも周囲に「お父さん」と呼ばれることに馴れ、今ではそれらしい顔付きになっている。

「それにしてもよく食べる子だな!」

グンターは目を丸くする。

「同僚の息子さんは二歳になるのに『霞ほどしか食べない』と奥さんが嘆いているのに、この子はまるで全身が胃袋みたいだ。離乳食を始めた頃はペッペと吐きだして、先行き不安だったのに」

「最近よく動き回るから、余計でお腹が空くのでしょう。何にでも興味を示して、すぐ口に入れようとするから、片時も目が離せないわ。それに、もう意思表示もできるのよ、身振り手振りでね」

「本当に?」

「ベビーチェアをとんとん叩いたら『お腹が空いた』、あなたの靴を持ってきたら『父さんはどこ?』。玄関先でアーアー言ったら『海に行きたい』。言葉はまだ発さないけど、ちゃあんと自分の意思があるのよ」

「可愛いなあ!早くVater(ファーター)(父さん)って呼んでくれないかな」

「今に楽しくお喋りするようになるわ。こんなに毎日、絵本を読み聞かせたり、歌ったりしているんですもの。来年にはあなたとドイツ語で話して、ドイツ語の本にも興味を示すようになるわ」

前のエピソード次のエピソード
logo
リファレンス
オランダの治水と締め切り大堤防 ~アフシュライトダイク(締め切り大堤防)
2018年に撮影した写真やアフシュライトダイクのCM動画もまじえて、締め切り大堤防の魅力やコルネリス・レリーの偉業を紹介しています。
【コラム】『ネーデルラントはネーデルラント人が作った』
【写真と動画で紹介】アフシュライトダイクと締め切り大堤防について
【哲学コラム】意思と表層の世界について。

『堤防と治水』に関連する記事

この記事を書いた人

石田朋子

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。科学番組の全盛期に子供時代を過ごした影響でSFを書いています。モットーは『Newtonから月刊ムー』まで。文芸とサイエンスを融合した新しいスタイルの作品を手掛けています。

運命はただ試すだけ

海洋SF MORGENROOD 《曙光》

上・下巻ともKindle Unlimitedにて配信中。
メンバーなら課金ゼロで読み放題です。
購入された方には読みやすいPDF版を無償で差し上げています。お気軽にチェックして下さい。